高校留学卒業生ストーリー (照喜名名太さん)

1984年 生まれ

幼少期に弟が通っていたアメリカンスクールで出会ったアメリカ人の友達とよく遊んでアメリカの文化に触れていた。

小学2年生の時に空手を始める。

小学4年生の時、友達に誘われ少年野球チームに入ると同時に空手をやめる。

中学から勉強が始まるが英語は全く意味が分からないため勉強する気すらおきなかった。 野球は頑張りレギュラーをとり、3年生最後の大会で県でベスト8に入る。 高校受験の時評価されると聞き英検5級を受けたが1回目は不合格。 けど、どうしても受験時の内申に英検の資格を書きたかったので2回目は隣の女の子の回答をカンニングし英検5級の合格を手にする。 塾にも通い受験対策をしたが、英語だけは進歩なし。 呆れた熟の講師が英語の試験時の秘策だけ教えてくれた。 一つ目は、過去の問題で a.b.c.d の内一番答えになったのはc。 二つ目は a.b.c.d の中で一番長い文か、一番短い文を選べと。 そんな感じであとは感だけで、解答し60点満点中30点を取る事ができ、高校合格する。

高校に入っても英語は全く意味が分からなかった、英語の試験時はどうせ英語の問題を読んでも答えきれない事がわかっていたので、クラスメイトの笑いをとるために試験開始5分で答案用紙を裏返して寝てみたりしていた。 野球の方はレギュラーとして、県ベスト8まで行くことができた。 高校3年生最後の野球の大会が終わってすぐ、母が 「留学してみない?」 と留学の話を持ちだしてきた。 英語が大の苦手なのは自分自身がよくわかっていたが、なぜか留学するのがいやだとは思わなかった。 留学したら英語が喋れるようになるとか、アメリカに行って見たいとか、前向きな事しか考えていなかった。 けど、人と違った事をしたがる自分はただたんに留学したらカッコいいと思っていただけなのかもしれない。そんなこんなで、母といくつか留学説明会へ行く。 そこで海外留学事情、留学費用、留学体験談など、話を聞いていくと留学の大変さを知る事ができ、やっぱり自分にとって一番の壁は英語力だった。 母がたまたま新聞記事から、フレンズアブロードと言う留学会社を見つけた。 母と一緒にフレンズアブロードに留学の話を聞きに行く事になり、そこで初めて今日まで10年以上もお世話になっている自分の恩人長嶺さんと出会う。 フレンズアブロードに行ったのは高校3年生の8月中旬なので留学するまでの準備の短さ、自分の英語力なさなど、留学できない理由の方が多かったが、長嶺さんは一言も無理という言葉は言わなかった。 むしろ、この時期から行ける高校を探してあげるとか、英語は出発までに私が教えるとか前向きな事しか言わなかった。 自分も、母も長嶺さんの情熱に引かれ留学手続きをフレンズアブロードに任せる事にした。 それから、毎日フレンズアブロードに通い、中学一年生の教科書から勉強をした。 ほんと、初歩の初歩の This is a pen から英語の苦手な自分に教えてくれた。 
中1から高3までの6年間、英語を教える国家資格を持った学校の先生ですら自分に英語の基礎も教える事ができなかったのに、なんと中3までの英語の教書を1ヶ月で分かるように教えてくれた。 今思えば、大変な労力を自分に使っていたんだと思う。 運転免許をすでに持っていた自分はアメリカでも運転できるように国際ライセンスをついでに取得した。

留学先はアメリカ、コロラド州デンバー、学校も決まり始めのホームステイ先は長嶺さんの姉の家に住まわしてもらえる事になった。 高校はマイルハイアカデミーと言う小さな私立の学校に通う。 1ヶ月間で中学の英語の教科書をなんとか終えただけなので、英会話力はほぼ無に等しかったので、学校での授業は数学以外は全く意味が分からなくあまり馴染む事ができなかったので、ホームステイ先の自分より一つ年下のユキと言う男の子によく誘われサッカーをしたり、ドライブに連れてってもらったりしていた。 留学してから、2週間目くらいの頃ユキの友達C君が運転する車に乗り映画に行く途中ハイウェイでC君が時速160キロで他の車をどんどん抜いていると案の定パトカーが来て止められた。 英語が分からない自分は車から降りようとすると、警察が銃を取り出す構えをし、車の中にいるようと言う。 その時はまだ留学して2週間目だが、もう日本に強制送還なんだろうなと思っていた。 次の日ユキとC君と役所の中にある家庭裁判所みたいな所に行きC君が罰金を払い事は済んだ。 留学してから3ヵ月くらいたった頃長嶺さんが仕事がてら、自分のようすを見にコロラド州に会いに来てくれた。 その時、ロッキーマウンテンナショナルパークへ一緒に連れて行ってくれて、まだ18歳の自分に将来一緒にビジネスをやろうと言っていた事を今でも覚えている。 学校では時々遊びに誘ってくれるパトリックと言う友達もできた。 彼は日曜日に教会に行くので自分も一緒に教会に行くと言う遊び方が多かった。
12月のある日曜日、教会のメンバーで Xmas パーティーもあり帰りが夜中の1時くらいになった。 大雪でもあったため友達は 「家まで送ろうか」 と言ってきたが、友達が疲れてそうな顔をしていた事もあり、いつもどうり学校前のバス停からならバスに乗り家までの帰り方が分かるから 「そこでいいよ」 と言い降ろしてもらった。 いつも30分くらいではバスが来るのに1時間たってもなかなか来ないし、雪がだんだん激しくなってきたところ、バスのスケジュール表に気付きよく見てみると最終便が12時30分で終わっていた。 雪はもう30センチくらいは積もっているし、ここから家までの距離は5キロもあるし、なんてたってその時の自分の服装はジーパンに半そでのTシャツの上からセーターを一枚着ているだけ。 自分はこんな夜遅くから、ホストファミリーに電話して向かえに来てもらうと迷惑がかかると思い、マイナス20℃の大雪のなか5キロの道のりを歩いて帰る事にした。 セーターなので、風が肌まで当たってくるし、寒さで両手はポケットから出せないから、頭にはだんだん雪が積もってきた。 2キロくらい歩いた頃から頭の額の上あたりが締め付けられるような感じで急激に痛くなり、心の中ではもう倒れて死ぬんじゃないかと思いながら、前を見ると雪が目に入ってくるのでひたすら前側姿勢で下を向きながら歩いた。 どうにか5キロを歩き2時間かけて家に着く事ができた。 頭痛はかなり酷くなっており、明日の朝は凄い熱でもだしているんだろうなと思いながら就寝した。 朝になり起きると以外に体調もかなり普通で逆にビックリだったけど、ホストファミリーに昨夜の事を話すとかなり叱られた….。

春になりホームステイ先も優しい老夫婦の家に住む事になった。 その頃、野球部に入りたかったが、自分の学校は私立で人数が少ないため野球部がなかった。 けどどうしても野球がしたかったので、バスで帰宅途中に公立の大っきい高校のグラウンドで野球をしているところを見たので、すぐバスから降りグラウンドに行き監督らしき人に 「練習だけでもいいから一緒に野球させて下さい」 と頼むと、トライアウトをして合格したらチームに入れてくれると言ったのでトライアウトを受けた。 かなり気に入ってもらえて一週間後の練習試合に出ろといわれた。 けど、野球のグローブしか持っていないと言うと、監督が一緒にスポーツ店に連れてってもらい、野球道具の一式を自分に買ってくれた。 通っている学校とは違う学校だったため、一週間かけ入部の手続きをした。 初めての試合で3打数2安打1打点の結果がでた後は打順も7番から3番に固定で、ポジションはレフトでレギュラーになった。 4月に入ると3年生最後の大会のデンバー内のリーグ戦が始まる。 地区リーグを勝ち抜きコロラド州大会にでることになった。 地区リーグでの打率は4割を超え、打率部門で州でベスト10に入りよくロッキーマウンテンニュースペーパーに載った。 自分の学校の先生もニュースペーパーを見たらしく、朝の朝礼でみんなに報告してくれた。 試合の日は毎回ホストファミリーも観に来てくれた。 州では2回戦で破れベスト16と言う成績で終わった。

5月には高校を卒業できる事になり、卒業式には母とおばあちゃんが沖縄からわざわざ来てくれた。 福祉の仕事をしている母が障害者の施設に行きたいと言ったのでホストファミリーと一緒にある施設にアポをとり見学しに行った。 やっぱり、アメリカは日本より福祉が進んでると感じた。

6月になるとホストファミリーが車で旅行すると言ってきたので、一緒に付いて旅行する事になった。 コロラド州からメリーランド州までを往復、アメリカをほぼ横断した。 彼らの親戚に会いながら、初めてアメリカのハイウェイを運転したり、リゾート施設に泊まったり、いろんなレストランに行ったり、ワシントンDCではペンタゴンを生でみたり、モーテルでの宿泊の仕方、地図の見方などいろいろな経験をした。

8月には沖縄に帰りながら、韓国で乗り継ぎの10時間を利用して、コロラド州で出会った韓国人と一緒にソウルを観光してから帰沖した。

9月からは日本の高校の2学期からまた通った。 アメリカの高校は卒業したのだが、この高校では認められないと言うことで、トータル4年間高校を通う事になった。 高校に通いながら、車の免許を持っている自分は米基地の中にあるファーストフード店でアルバイトした。

20歳の時お金を貯める為、三重県に友達と働きに行く。 6ヵ月で150万貯めた。

21歳の時友達とオーストラリアにワーキングホリデイに行く。 シドニーで1ヶ月間語学学校に通い、バンダバーグで2ヶ月間泊まりこみで農場で働く。 今まで生きてきたなかで一番キツイ仕事をする。

その後また、三重県に11ヶ月働きに行き300万貯める。

23歳に L.A へ留学する。 ホームステイしながら留学学校へ通う。 学校の友達とではなく地元の友達と遊んでいた。 2週間でスヌープドッグのホームパーティーに参加する事になった。 学校の友達とはサンフランシスコや、サンディエゴにも車で旅行し、カリフォルニア州を縦断した。 父が急遽仕事を辞めたこともあり、3ヵ月で沖縄に帰る。

沖縄に帰って来た後は米軍基地の中で3つバイトを掛け持ちしながら、軍雇用員の空を待った。 24歳で4回目の面接に受かり今の職場の CLUB のマネージャーになる事ができた。

米軍基地での仕事もしながら、ヘルパー2級の資格も取り母の会社 (障害者施設) での現場、経理の仕事を手伝う。

25歳に福祉の仕事もしている事もあり、前から興味があったセラピードッグの育て方を習うため、沖縄災害救助犬協会に入って犬を使っての社会貢献、ボランティアをしながら犬の良さ、必要性を学ぶ。

26歳の3月11日に東日本大震災が起こり、14日沖縄災害救助犬協会として、岩手県に探索しに行く事になった。 東京から、車で岩手に向かう間5人で車で野宿したりした。 現場はひどく、匂いもひどいし本当の修羅場みたいな物を見てきた。

27歳、自分の案で障害者のためのホースセラピーに力を入れている。 かなりいい効果がでている。

28歳友人に誘われ、パラリンピックを観にイギリスへ1週間旅行に行った。 人生初のヨーロッパだった事もあるが、パラリンピック (イギリス) 凄いものをたくさん見る事ができ福祉のあり方を改めて考えさせられる事になった。

2014年、29歳現在、母の会社も起動にのり近い将来自分が母の会社を継ぐ事になりそうだ。 その時には世界の福祉からいい物をいっぱい取り入れて、沖縄風にアレンジし沖縄の福祉を世界に出していきたいと思っている。

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